★ 愛しの文化祭バンド

 学園祭・文化祭にバンド演奏はつきものだ。大学祭だとそこそこ有名なプロミュージシャンが来てライヴをしたりするが、中学・高校では、そんなことは望むべくもない。もしかしたら都会の学校ではそういうことも行われていたのかもしれないが、僕が住んでいた地方都市では、当然のごとく学生アマチュアバンドばかりであった。

 音楽好きな人間は、プレイヤーかリスナーかのどちらかになる。楽器練習という肉体的鍛錬に耐え、自分で音楽を作り出す喜びを知った人間はプレイヤーになり、もっぱら音楽を聴く快楽ばかりを追求している人間はリスナーになる。

 僕の場合、完全に後者のパターンであった。もともと「練習」とか「鍛錬」というものが大の苦手であったし、バンドをやるには、まず楽器代から始まって、やれエフェクターだ、楽譜だ、スタジオ代だと、けっこう金もかかる。そんなんじゃ家で音楽を聴く時間が少なくなってしまうし、レコードも買えなくなってしまうやんか、と思っていた。

 それでもバンド演奏自体には興味があった。今に比べるとライヴ演奏を見る機会の少ない時代である。本物を観ることができないからアマチュアバンドを、といういわば一種の代用品としてとらえていたと思う。

 そういうわけで、文化祭になるとあちらのバンド、こちらのバンドと、あれこれ観て回るのが楽しみであった。

 中学生バンドは、その年齢的制約からどうしても「とりあえずバンド組んでみました。コード押さえてます」的なレベルのものが多かったが、高校生になるとそれなりに「聴かせる」バンドも出てくる。

 記憶に残っているのは高2のときに観た上級生のバンドである。当時の学生アマチュアバンドの定番といえるディープ・パープルのコピーをやっていたが、その技術レベルは半端じゃなかった。特にボーカルの上級生の声は素晴らしく、イアン・ギランばりに低音から高音までを完璧に操っていた。
 しかしその先輩は、身長が150センチくらいと小柄で「野比のび太」そっくりの風貌をしていた。しかもうちの学校では、特別な衣装を着て演奏することは許されなかったから学生服のままである。

 詰め襟をたてたミニのび太ギランが「チャイルド・イン・タイム」を熱唱する様は今思うとかなりおかしかったはずだが、そのときは演奏の迫力に興奮してそんなこと露とも思わなかった。中庭での演奏というロケーションもよかったし。

 当時全盛だったYMOのコピーバンドもあった。シンセを持っている生徒が6,7人集まって、合同で演奏したのである。
 ステージ上はそれぞれのシンセから出たコードがぐちゃぐちゃにこんぐらがってすごい有様になり、「どんな音が出るか僕らにもよくわからんから、スピーカーから離れていた方がええよ」とメンバーが観客に注意を促していたくらいであったが、こういうスタイルのバンドは他にはなかったので、とても新鮮だった。

 3年生のときには、同級生のバンドの手伝いをした。PA卓に座って、ミキサーまがいのことをしたのである。 

 僕が通っていた高校では、バンドのためにレンタルで小規模なPAとミキシング卓を設置してくれた。ただし業者はセッティングまではやってくれるものの、ずっとついていてはくれない。生徒に使い方だけ教えて帰っていってしまう。だから出演バンドは、それぞれPA担当を用意しなければならなかった。僕はその役を頼まれたというわけだ。

 僕が関わったのは、ギター2本にベース、ドラムス、ボーカルという5人編成のバンドで、ビートルズやストーンズなどの曲を演奏することになっていた。文化祭で演奏するためだけに結成された臨時バンドである。
 しかし、ギター、ドラムス、ベースは簡単に決まったもののボーカルのなり手がなかなかなく、紆余曲折を経て、最終的に同じクラスのO君がその役を受け持つことになった。

 長身・細身でハンサムなO君はストーンズファンでもあり、ボーカリストとしてはぴったりの人材であったが、本人は派手なことをするのが好きではなく、かなり気が進まない様子だった。が、結局、他のメンバーに説得されて参加することになったのである。

 そして演奏当日。まずO君をのぞいたメンバー4人が体育館のステージに登場した。

 1曲目は「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」。ギターのイントロに導かれて、ギンギンにメイクをしたO君がステージ上に飛び出して歌い出す。とても出演をいやがっていたとは思えないがんばりぶりである。かっこいいやんか。客席の女の子たちも「あの人、だれ?」なんて興味しんしんである。

 しかし、ボーカルの音が小さい。O君の声量の問題ではなく、2台のギターの音がばかでかすぎるのだ。PA卓にいた僕はあわててレバーをスライドさせて、ギターの音を下げる。が、いっこうに音量は下がらない…。なぜだ…。

 よくよく聴いてみると、ばかでかい音を出しているのはPAではなく、ステージ上にちょこんと置かれた2台のギターアンプであった。実はリハーサルのときにギターの二人が張り合って、自分のアンプのボリュームを普段より上げてしまっていたのである。

 片方が音を大きくするともう片方も対抗してボリュームツマミを回す。それを見てふたたびもう片方がボリュームアップ…という繰り返しの果ての爆音ギターであった。そういや練習を見に行ったときも二人はめちゃくちゃ張り合っていたなあ、と思い当たったが、もう遅い。

 おおもとの音量が極端に大きいのだから、PA卓でコントロールするには限界がある。かといって演奏中、ステージに上がっていってアンプのボリュームを下げることもできない。お手上げである。クラスの女の子たちが次々と「O君の声が聞こえへんよ〜」とクレームをつけにくるが、「なんともできん」と首を振るしかなかった。

 結局そのままの状態で演奏は続き、自分のギタープレイを大音量で聴かせることのみに専念した二人のおかげで、せっかくのO君のがんばりは報われずじまいであった。

 文化祭の数日後、O君のところに件のギタリストの一人がやってきた。なんだか言い争いをしている。
 「あんなイヤな思いをして、なんで金まで払わなきゃいけないんや」とO君。バンド演奏をした生徒は、PAレンタル費用の一部(一人あたり数千円)を負担しなければならなかったのである。ギタリストはO君のところにそのお金を集めに来て、そのことでもめていたというわけだったのだ。

 「確かにな〜、むりやりやらせといてあれじゃな〜」僕はO君に深く深く同情したのであった…。

 (2002/03/07)

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