★ 失われたパートナーを求めて 〜 80年代のポール・マッカートニー

 1980年12月8日、ニューヨークのダコタ・アパート前で、ジョン・レノンは元ファンであるマーク・チャップマンに射殺された。

 その報せを聞いたポール・マッカートニーの悲しみはいかばかりだったろうか。古くからの友人であり、かつて最高の音楽的パートナーだったジョンが突然この世からいなくなってしまったのだ。

 ビートルズ解散後、不仲説も伝えられたジョンとポールだが、ポールの回想録(バリー・マイルズ著「MANY YEARS FROM NOW」)によれば、70年代後半には友情を取り戻して、時々はニューヨークのジョンのところにポールが訪ねていったりもしていたそうだ。ポール自身、なんらかのかたちでジョンとまた組むこともあるだろうと思っていたのではないだろうか。

 そのかけがえのないパートナーを永遠に失ってしまったのだ。その衝撃は僕たちが想像する以上のものであったに違いない。

 そしてそれ以後、80年代のポールの音楽活動は、失われたパートナーを求める旅であったように僕には思える。

 まず82年の「タグ・オブ・ウォー」ではプロデューサーにジョージ・マーティンを迎えた。007映画の主題歌「死ぬのは奴らだ」で組んだことはあったけれど、アルバム全体のプロデュースを任せるのはビートルズ解散後初めてのことだった。そしてシングル・カットされた「エボニー・アンド・アイボリー」ではスティーヴィー・ワンダーとデュエット。スティーヴィーと共演した動機について、当時のインタビューでポールは「黒人最高のミュージシャンとやってみたかった」というようなことを言っていた。曲はもちろん大ヒット。ソロ・アーティストとしてのポールの実力を印象づけた。

 次作「パイプス・オブ・ピース」('83)は「タグ・オブ・ウォー」の続編的アルバムで、プロデュースは再びジョージ・マーティン。ここでポールがパートナーに選んだのはマイケル・ジャクソンだった。その共演シングル「セイ・セイ・セイ」はまたまた大ヒット。二人がメディシン・ショーの芸人に扮したプロモ・ヴィデオは当時日本のTVでもよく放映されていた。マイケルも「スリラー」がメガ・ヒットのさなかで、飛ぶ鳥をも落とす勢いだった頃だ。

 ビートルズ時代の曲の再演を含むサウンドトラック「ヤア!ブロード・ストリート」('84)をはさんで3年ぶりとなったオリジナル・アルバム「プレス・トゥ・プレイ」('86)では、元10ccのエリック・スチュアートをパートナーに迎えた。ここでは半数以上の曲をエリックと共作している。
 ポール「昔のやり方を思い出したよ。ジョンと曲を作ったときのね。向かいあってアコースティック・ギターを弾いて、鏡を見るみたいにね。」
 しかし、コンピュータ・プログラミングを使用した80年代サウンドはポールの本来のスタイルにそぐわず、妙に居心地の悪い印象の作品となった。(15年が経過した今の耳で聴くと佳曲も多く、素直に楽しめたりするのだが。)

 こうした試行錯誤を経たのち、真打ちとして登場するのがエルヴィス・コステロである。

 コステロとパートナーを組むにあたって、ポールは自ら彼に申し出たという。コステロも快諾し、作業は始まった。
 それはほんとうに充実した時間だったようだ。コステロは辛辣なコメントを遠慮なくする人間でもあり、ポールが用意してきた曲を聴いて「そんなのはゴミ」とはっきり言うこともあったという。

 スティーヴィーやマイケルのようなスペシャル・ゲストでもなく、エリック・スチュアートとの時のような上下関係もなく、完全に対等な関係だったのだろう。ジョンとの間にかつて存在したような緊張感と創造性あふれるパートナーシップを築くことのできる人間だったのだ、コステロは。

 その結果はアルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」('89)に結実する。「マイ・ブレイヴ・フェイス」「ディストラクションズ」「フィギュア・オブ・エイト」「ディス・ワン」etc。コステロと直接共作した曲以外にも優れた曲が多く、ポール本来のポップセンス全開の傑作だった。

 そしてこのアルバム制作のために集めたメンバーをベースにあの大規模なワールド・ツアーが始まることになる。世界中のビートルズ・ファンを興奮の渦に巻き込んだ90年代のソロ・ツアー時代の幕開けである。

 そのツアーが大成功に終わった90年代の半ば、ついに(というべきか)ポールは「失われたパートナー」ジョンとの共演まで果たしてしまった。「フリー・アズ・ア・バード」と「リアル・ラヴ」である。

 今振り返ると、あのヴァーチャル共演を素直に受け入れることができたのは、80年代のポール自身の試行錯誤とその成果があったからだと思う。もしポールがその時点で現役ミュージシャンとしての魅力を失っていたら、あの2曲は単純なノスタルジーにまみれた醜悪な作品になっていたかもしれないのだ。

 いかに天才といえども、その才能を十分に発揮するには、常に創造的刺激を与えてくれるパートナーと、そして本人のたゆまざる努力が必要なんだなあとしみじみ思うのでありました。

 それにしても今回のポール来日公演を見逃したのは一生の不覚でした。ちくしょー。 


 (2002/12/15)

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